昭和のお話
ビー玉、ベーゴマ、風船ガムにニッキとえーと、、、
それから メンコとおはじきとあっそうそう 竹とんぼ やったわやった …
(という台詞から始まるこの曲のタイトルは?)
先月、母方の伯父の法事で帰省した折、従兄妹から、遺品を整理していたらこんなのが出てきて、良かったら読んでみてとホチキス留めされた原稿を渡されました。
見ると昭和62年に伯父が「会津会誌編集部」(これがどういうものなのかは不明)に投稿したものでした。
話はさかのぼること昭和5年。
当時伯父(母)家族は東京に住んでおり、祖父の体調不良を機に、祖父の故郷である会津若松に引っ越しをすることになりました。
今と違って、都会と田舎の差があった時代、その当時東京から会津若松に住まいを変えるということは、どんなに大変だったことか、私にも想像がつきません。
まず言葉が違う、生活文化が違う、きっと異国の地に移転するという感じだったのではないかと思います。(今の私が明日ニューヨークのど真ん中に移住するくらいの)
いわゆる都会っ子であった当時小学生の伯父は、会津のすべてが新鮮だったようですが、東京から会津に向かう列車の中では、祖父から聞く「磐梯山」というものにとても興味を持ったと書いてありました。
<以下原文のまま>
教科書に「山」と出ても、大地が上にあり、高くて上るのに大変な所とは、現実の理解が届きませんでした。
宇都宮を過ぎたあたりから、手の届く近さに丘が現われはじめます。
高さ二十メートルの土塊、草や木がいっぱい生えて・・・
「あ、お父さん、バンダイだ!」「いや、そんなに小さくはないんだよ。」
「あ、あれか、上に家が建っている!」「いや、もっともっと大きいんだよ。」と父。
そして、百メートルの山、三百メートルの山と驚きを積み重ね、山の大きさにそれほど感じなくなった時、桁ちがいの大物が現われた。
それはもう、この世の実在とは思えぬ崇高、偉大の極みであり、聞かずとも知れるその山でした。
ふもとの方は草木もあるらしい色、上方は紫色で雪をかぶり、その雄大な姿と容積が体当たりで心に迫ります。私は生涯はじめての感動に、言葉もありませんでした。
伯父の熱狂ぶりは、すぐに7、8枚の作文となり、毎日その画を描き、人に話し、磐梯山を知り尽くしている会津の人々に、その偉大さを説くほどだったそうです。(伯父の微笑ましい興奮ぶりが目に浮かびます)
急遽田舎暮らしを強いられた伯父(母)家族は、会津に慣れるまで大変だったようですが、伯父は磐梯や盆地の山川と親しみ、それこそ「けん玉、竹とんぼ、ペッタ、縄とび」と仲間といろいろな遊びをし、その仲間のお陰で会津に故郷を持ちましたと書かれていました。
昭和初期の田舎のお話です。
社内で誰より昭和な私のさらに昭和のお話でした。
文:こづゆ